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この日は、トークに先立ちMOVIX京都で『ファラオの恋』DCP版・日本語字幕・オーケストラBGM付が上映され、続いて会場を京都文化博物館に移してヒストリカ・トーク、その後に35mmフィルム版・英語字幕・ピアノ生演奏付 が上映されました。記者は、ノイズだらけで不鮮明な古い画像が美しく修復される様子を記録した映像も事前に見せてもらっていましたが、修復されたものを実際に劇場の大画面で見ると、屋外戦闘シーンなど実に迫力があり、90年前の観客と同じく高揚した気分を味わうことができました。以下、ヒストリカ・トークの様子をお伝えします。(敬称は省略いたします。)

【モデレーター】市山尚三(東京フィルメックス・プログラムディレクター)   
【ゲスト】デイヴィッド・ロビンソン(映画史家)、滝田洋二郎(映画監督)、大野裕之   
                 
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市山:まず、今回この映画祭で『ファラオの恋』を上映することになったきっかけからお話しします。この映画との出会いは、5~6年前のカンヌ映画祭のマーケット(映画バイヤー向けの新作映画上映会)でした。“幻の名作”と言われていたはずの『ファラオの恋』がいつどこで発見されたのか、なぜここで上映されているのかと驚きました。新作ばかりのマーケットなので旧作など見る人は少なく、広い会場に10人程度の観客しか入っておらず、とても贅沢な気持ちで鑑賞した記憶があります。ドイツ人監督のルビッチは1922年にドイツからアメリカに移り、ハリウッドでソフィスケート・コメディ監督として有名になったので、『ファラオの恋』の迫力ある画面は意外でした。

次に、ポルデノーネ無声映画祭ディレクターのデイヴィッド・ロビンソンさんに、この映画の社会的背景を話していただきましょう。

ロビンソン:1910年代のサイレント時代、ドイツには非常に有名なサイレントコメディアン「メイヤー」という人物がいました。彼は自らの監督主演でユダヤ人の生活をギャグにした作品を発表するなど、当時のドイツで最も優秀で有名で面白いコメディアンでした。実は彼こそがルビッチその人なのです。ルビッチはそのキャリアをコメディアンから始めたのです。
そんな彼が大作史劇を撮るようになったのですが、1910年代のドイツ映画は、第一次大戦後のドイツ自体の不人気も手伝って世界的に不評でした。そんな中でドイツ映画を世界へ送り出すきっかけとなった作品が、ルビッチ監督の『パッション』など2作品でした。
彼は1924年にアメリカの人気女優メアリー・ピクフォードに招かれてハリウッドに渡り、『結婚哲学』という作品のヒットで一躍有名になりました。一般にはコメディ監督として知られているルビッチに、非常に短かったとはいえスペクタクル歴史作家時代があったということは興味深いことです。そういう意味で、この『ファラオの恋』はルビッチを知る上では大切な作品だと思います。

市山:次は滝田監督に、この映画を見てお気づきになったことなど伺いたいと思います。

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滝田:今回の映画祭で上映された『恐喝[ゆすり]』などもDVDで見てはいたのですが、やはりスクリーンで見ると引き込まれます。『ファラオの恋』も同様ですね。しかも、この作品は90年以上前の作品です。それが修復されてこのように美しい状態で甦るというのは、やはりフィルム映画のすばらしい点だと思いました。

また、これは間違いなく当時の超大作です。何千人ものエキストラをどうやって動かしたんでしょう……僕なんか200人も使ったことないのに(笑)……技術もシナリオも撮影方法も確立していたのだ ということに感心しました。それを考えると、僕たちは90年前から進歩しているのだろうかと思ったりもしました。あと、興味深かったのは、当時のカメラのレンズです。現在は望遠やズームなどありますが、当時はきっとレンズ交換もほとんどなく1,2本しかカメラがないという制約の中で、その制約があるからこそすばらしいショットが生まれたのでしょう。それが大きな発見でした。また、クローズアップの難しさは昔も今も変わりませんね。そんなことを感じながら見ていました。

市山:大野さんにもご意見を聞いてみましょう。

大野:彼がスペクタクル史劇の後に洗練されたコメディ映画監督としての地位を確立していく中で大きな影響を受けたのは、チャップリンの『パリの女性』だと思われます。

滝田:ルビッチが喜劇俳優から出発し、サイレントを経験し、後期はアメリカで面白い喜劇をたくさん撮ったわけですが、日本でも過去にはマキノ雅弘さんなど、俳優でありスタッフも経験して監督になった方がいます。私は映画をやる人は、監督になる前に何でも下積みを経験して力をつけていくことが大切だと思います。

市山:『ファラオの恋』の歴史的背景について、もう少しロビンソンさんに聞いてみたいと思います。
当時こういう作品が多く作られた理由など歴史的背景についてお願いします。

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ロビンソン:この映画は体制への反抗について描かれていますが、当時は1917年にロシア革命、ドイツでも第一次大戦後に革命が起こり、どの国も革命の気運が高まっていた時期だということが作品の背景の一つです。もう一つは、ツタンカーメンの発掘によるエジプトブームが挙げられます。エジプトブームは、ナポレオンの遠征によるものなど、過去にも繰り返し人々を魅了してきています。また、当時は不況により多くの浮浪者がうまれましたが、大勢のエキストラを安く確保できるという点ではスペクタクル映画には有利であったと考えられます。

市山:喜劇もスペクタクルも撮っている、ということで滝田監督との共通点も感じますがその辺いかがでしょうか。

滝田:みなさん割とあの監督はシリアスだ、コメディだ、社会派だ、と決めつけたがる傾向があるのですが、実際は“始まり”の影響が大きいのです。“始まり” というのは所属映画会社で、どうしてもその会社のカラーに近いものになってしまいます。小津さんも松竹であったから、ああいう作品を残されたのではないでしょうか。どの監督も、作品のオファーや人間関係なども含め、映画制作会社の運営的なものから逃れられないと思います。私もコメディー監督と見られていましたが、その真逆のものも撮ってみたいと思っていました。

市山:この辺で『ファラオの恋』について客席の皆さんから質問を受けたいと思います。

客(男性):今日第1回目の上映では字幕が日本語でした。
やはり字幕は原語で、その監督がどういう言葉を選んだかがわかるようにするのが理想だと思うのですが。

市山:今回の字幕はフィルムを修復したドイツの会社が12カ国のバージョンを作ってくれ、その一つに日本語バージョンがあったということです。おそらく直訳になっていると思います。ちなみにこの後第2回目の上映は英語バージョンです。
大野:『ファラオの恋』はドイツ国外に散逸し、英語や仏語になっていた字幕を独語に翻訳し直す、という作業がなされたようです。どうしても足りない字幕は、ミュンヘン博物館に残っていた字幕検閲カードからもう一度見直したりして復元したそうです。それから、字幕をルビッチが書いていたかどうかはわかりません。チャップリンも1918年に自分の会社で映画を作るようになる以前は、彼自身は字幕を書いていませんし、コレクターが勝手に字幕を書き換えてしまうこともあったようです。

市山:補足すると、『ファラオの恋』はロシアで戦闘シーンばかり55分が発見され、他はイタリアなどで見つかったものを継ぎ足して修復し、足りない部分はスチール写真で補っています。

客(男性):『ファラオの恋』はCGなどない時代において超大作だったと思いますが、『イントレランス』という映画も同様に超大作だと思います。なぜこのような作品が作られたのでしょうか。また、チャップリンのお話もお願いします。

ロビンソン:当時は確かにこういった超大作が流行していました。その最初は1913年パストローネ監督『カビリア』で、これは今見ても驚くべき作品です。この作品後、映画業界ではお金と人を使って大作を作ることがブームとなり、アメリカでは1915年にグリフィス監督『国民の創生』、1916年に『イントレランス』が作られました。『ファラオの恋』はそれより6年後の制作になります。こういった多くの人を動員した作品を見ていると、「本物の大きさ」と言いますか、CGなんかよりおもしろいと感じます。

チャップリンについての個人的な想い出をお話しします。私がチャップリンを初めて見たのは、1952年事実上アメリカを追われる形で『ライムライト』の完成プレミア上映会をロンドンで開いた時です。私は22才の学生でしたが、当時の年収分くらいの大金を旅費やチケット代に充てました。次に1970年代やはり『ライムライト』のリバイバル上映があった時に、私が評論家としてロンドンタイムズに書いた「ライムライト論」をチャップリンが気に入ってくれたらしく、サイン入りのX’masカードが私宛に送られてきました。その後1975年に彼がナイトに叙せられることになった際に、ロンドンで開かれた内輪の祝賀晩餐会に招待していただきました。その時チャップリンは既に86才で、少し言葉は出にくくなっていたものの、頭脳は非常に明晰でした。私にとって大変光栄な時間でした。最後にお会いしたのは彼の最晩年だったのですが、サイレントの『パリの女性』に音楽をつけてサウンド版として再公開するため、彼自身がスタジオに入って監修している時でした。「80分の映画全編に音楽をつける作業は大変だったのではないですか?」という私の質問に対する彼の答えを、私は忘れることができません。「Not really, inspiration mostly.(そうでもないよ、ただのインスピレーションだもん)」これが、私が聞いた彼の最後の言葉だったことに加え、この日はチャップリンが生涯に於いて最後にスタジオに入った日でもあったからです。

客(女性) 大学生22才です。今回の映画祭で映画の深い見方を学ぶことができました。フィルムやモノクロ、サイレント映画が今後新しく作られたり、新しい人が出てきて活躍できるシステムができれば面白いと思うのですが、その辺はどうお考えでしょうか。

滝田:これからどうなるかは誰にもわからないけれど、あなた自身が動いてみてはいかがですか。システムを決めてしまうこと自体が物事をつまらなくして画一化してしまうし、情報をもらってばかりだと聞いたことしかできないし、みんなが知っていることしかできない。自分のオリジナルで、自分の好きな事を、自分がやるってことじゃないですか。プロかどうかが問題ではなく、やれる人がプロになっていくわけで、挫折なんて当たり前だし挫折こそが面白いっていうのは、今日のルビッチやヒッチコックが証明しているじゃないですか。たたかれたり、国を移ったり、間に戦争があったりする中でも自分を貫き通して、その中で浮いていることに快感を覚えながらやっていく。私もそうやっていきたいなと思っています。

ロビンソン:サイレント映画祭をやっている中で毎年少しずつ若い客が来てくれますが、若い人の方がセンシティブで物事にすぐ反応してくれます。サイレント映画が前よりも若い世代に浸透している気がしますし、新しい作品も作られています。サイレント映画を愛する人はこれからも増えていくと思います。今回上映したヒッチコックの『恐喝[ゆすり]』のサイレント版とトーキー版を見比べるとはるかにサイレント版の方が表現が豊かです。サイレントの良さに気づくよい教材だと思います。世界中の映画人が絶賛する映画作家や監督…チャップリン・ヒッチコック・小津・溝口…彼らは皆サイレント時代にキャリアをスタートさせ、映画が何であるかを学んでいる。サイレントは映画技法としてすばらしいものです。あなたにかかっていますよ。

市山:そろそろ時間が押してきましたが、最後に皆さん一言ずつどうぞ。

滝田:改めてスクリーンで見ることの心地よさを感じています。映画はたくさんの人で作ってたくさんの人と感動できる。スクリーンには本当に多くの情報が詰まっています。特に今回痛感したのは、しゃべらない方が多くの情報を詰め込むことができるということです。作り手にとっても大変勉強になりました。映画の原点であるサイレントをもっと楽しんでいただきたいですね。
あと、もっと若い人に映画館で見てほしいですよね。「家にこもってビデオを見るのはやめよう!」という運動をしたいくらいです(笑)。外へ出たらいろんな出会いもあるし、僕はそういう時にストーリーを考えます。いろんなものを見て、感じて、自分の仕事と結びつけています。

大野:この映画祭、日に日にお客さんが増えています。それがうれしいですね。

市山:来年は先ほど話が出ました『カビリア』の復元版をやってほしいですね。そうしたら、是非来年も見に来たいと思っています。ゲストの皆さん、本日はありがとうございました。

ボランティアスタッフ:おはらかほる