11月3日(木)、京都文化博物館において、映画「古都」の上映後、監督Yuki Saitoさんと本映画祭実行委員会事務局長の高橋剣さんとのトークショーが行われました。

○初のカムバックサーモン・Yuki Saito監督
高橋さん:京都ヒストリカ国際映画祭は歴史映画を集めた映画祭ですが、このように現代映画をまともに流すのは初めてです。映画祭の中にある人材育成事業・京都フィルムメーカーズラボという人材育成事業がございます。そこのカムバックサーモンたち、つまりワークショップを行っているそこの卒業生の方々に出て頂いて彼らの最新作を持って京都に来ていただこうという試みです。その第1回目のサーモンとしてYuki Saitoさんを選ばせていただきました。

Saito監督:最初のサーモンです(笑)帰ってきました。

高橋さん:まずこうやって帰ってきていただいて、またワールドプレミアという形にもなるわけですが、京都ヒストリカ国際映画祭を選んでいただきありがとうございます。

Saito監督:こちらこそありがとうございます。

○「君は200%監督にはなれない」という師匠の言葉

高橋さん:サーモンがここに至るまで、、、なぜフィルムメーカーズラボに参加したのかからお話をしていただけたらと思います。

Saito監督:なぜ京都フィルムメーカーズラボに参加しようと思ったかというところですが、もっと一度遡ると、僕は高校を卒業してずっとアメリカで映画を学んでいて、8年間くらい向こうにいたのですが、当初はアメリカ映画が好きで僕は千葉の出身で京都ではないのですが、町に映画館がなかったので、僕の「映画=テレビで見られるもの」でした。
当時はハリウッド映画の全盛期で、僕はハリウッド映画を観て育ったこともあって、ずっとハリウッドの映画を作っている国に行きたい、アメリカへの憧ればかりでした。日本への帰国を決めた要因に大学を卒業してティーチングアシスタントとしてNorman Powell 先生、僕の師匠みたいな先生について、先生はドラマ『24』のプロデューサーなんですけど、ある日呼び出されまして、ちょうど先生が新しい現場を立ち上げる時だったのでひょっとしたらハリウッドの業界に入れる機会がやってきたと思って話を聞くと、先生から「もしこのままハリウッドにとどまっていたら君は200%監督にはなれない。」と言われまして、「なぜですか?」と聞き返すと「君はアメリカ人になろうとしている。でも君は日本人じゃないか。その割に日本のことを知らなさ過ぎる。背伸びしてアメリカ人になるんだったら僕はアメリカの監督を雇う。でもアメリカの歴史はそんなに深くないから色々な多民族の文化が重なり合って出来ているんだ。そしてハリウッドの50%以上が外国籍なんだ。その人達は自国でしっかりアイデンティティがあって、ルーツを大事にしていて、文化を大事にしていて、だからこそその目を持ってアメリカに来て世界に向けた大衆的な映画を撮るから、アメリカ人にないものを持っているから凄く魅力的なんだと。君は全く日本のことを知っていない。」これには伏線がありまして、一度先生の授業で黒澤明監督の『羅生門』を観る機会がありまして、先生から「黒澤の国から来たお前が今日はティーチャーだ!日本映画についてお前が語れ!」と言われた時に、恥ずかしながら、「『羅生門』を観ていない、、、。『七人の侍』は観たけど、、、。」となりまして。その時にいた15人のアメリカ人の学生は全員が観たことがあると言った。もう恥ずかしくて、泣きながら『羅生門』を観て、「この8年間何をしてきたのだろう。」と悔しくて悔しくて。そういった部分も先生は見て、僕に今すぐにでも日本に帰って、オリジナルコンテンツの作品を撮りなさいと言って、「それがしっかり撮れた時にもう一度僕のもとに戻ってきなさい。」という言葉が響いて日本に帰ることにしました。
もう1つ約束をして、アメリカで過ごした8年間は無駄になったのかというとそうではない。アメリカで映画を学んだ24歳はいるか。それがお前のアイデンティティだ。だから日本に帰った時は“I am from Hollywood.”と言いなさいと。だから僕の名前は日本の映画界やっていく中で、世界に向けて頑張るという意味を込めて「Yuki Saito」というアルファベットの名前にしていています。
そういう教えのもとに日本に帰国し、日本のものを撮るという目的で、アイドル×ロボットのドラマを撮るなど、日本文化に特化した映画を撮っています。一度、女忍者×鬼というアクション映画を作るとき、「これは太秦だろ」ということで、撮りに来た時のプロデューサーが高橋さんで、、、。

高橋さん:その時は生意気でね(笑)

Saitoさん:その時は20代だったので、、、。東映の重鎮のスタッフの方も入って「俺はこうしたいんだ!」と言っても彼らに響かない響かない(笑)それを助けて下さったのが高橋さんでした。間に入って下さって。
ただ撮り始めるとビジョンを凄く支えてくれて。職人の技を見てこれはハリウッドにはない美しい技術だというものをたくさん見て、これこそが日本のならではのものだということを太秦で学ばせてもらった。この作品の撮影終了後に剣さんから京都フィルムメーカーズラボ、京都で作品を撮ってもらってその経験を生かしてもらいたい、という計画があると言われ「ノー」と言わないですということで、それに参加しました。
今日、9年目のフィルムメーカーズラボに行って驚いたのですが、40人くらい生徒さんがいて、20人くらいが外国の方で。約50か国から応募があって、本当に選りすぐったレベルの高い方々が来てくれているという9年目で、僕はその1年目で。

高橋さん:最初は20人くらいで、しかも全員日本人で。ただ講師にドイツ人の先生を選んできてもらって、合宿して、太秦のセットで映画を撮るというものでした。

○今ほど日本文化が注目される時はない

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Saitoさん:京都でもっと撮りたくて。ここには凄いものまだまだたくさんある。京都の町を見ていて思ったし、ラボ時代に京都に戻ってきて映画を撮りたいと。僕のモットーは「有言実行」なのですが、勇気を持って発言をして後はなんとか実現させるということをモットーにしている。このようなこともあり、ようやく3年前に伊藤プロデューサー、小林芙蓉先生、川端財団の川端香男里先生がちょうど東京オリンピックも決まって今ほど日本文化が注目されている時はないんじゃないか、京都の魅力が詰まったものを撮りたいとなった時に『古都』となった。過去のものをもう一度となると1本目は中村登監督、岩下志麻さん主演で初めて米国アカデミー賞にもノミネートされた作品、2本目は市川崑監督で山口百恵さんの引退作として撮った原作なのでそのままの時代の劇(1950年代)として撮れる監督はそれこそ京都の大先輩でいっぱいいらっしゃると思いました。が、若い人に伝統を継承するという、だから現代に時を持ってきて、若い監督に撮ってもらいたいとのことだったので、そのアプローチであれば温故知新の考え方で過去の作品をリスペクトしながらも自分の視点をいれながら撮ることができるんじゃないかと思ったのが『古都』を作ろうと思った経緯になります。

高橋さん:原作、映画、ドラマを知らない方々にとったら、微妙な作品になりますが、
昭和30年代の京都を舞台に、二役をやった松雪泰子さんが演じた娘時代が話なので、どこかファンタジックな、どこかリアリティを忘れた、寓話性のあるお話ですけど、それを現在に持ってくるのはだいぶチャレンジだという気がするんですよ。

Saitoさん:だいぶタフなチャレンジでした。非常に難しかったです。

○リアリティと幻のバランス

高橋さん:現代の京都が抱えているリアリティを描こうとされていますし、ただあんまり描きすぎると原作の良さを踏み外すのではないかと、微妙なところがありますよね。

Saitoさん:まずアダプテーションと言いますか、ノーベル賞作家の作品に書き加えるという大それたことなんですが、、、。一度権利をもらいに川端香男里先生のところにご挨拶いった時に、今までで一番緊張して、この思いを伝えたのですが、仏の顔のように「自由にやりなさい。小説と映画は違うから。」でもその後クッと鋭い目をされて「ただ川端康成の精神は継承してくれ。そこさえ継承すれば、君の中で思ってくれたら後は自由にやってくれてもいい。」ということで。当然のように『古都』を何度も読むのですが、「幻」という言葉が小説の中に多くて、3度目、4度目と読んだ時に「ひょっとしたら苗子はいないのでないか。」という読み方も1回したことがあります。まさに寓話性といいますか、「ほんとうにあった話だろうか。」と。川端先生本人も睡眠薬をとりながら、京都に酔いながら書いたという手記もありましたけど、やっぱり現代にするからには完全なファンタジーですという風に言い切るのはどうしてもいやで現代にする意味を感じませんでした。だから、ひょっとしたらいるかもしれない室町の人、何人かにお話を伺って近いことを感じる家族のお話を伺いながら、その伝統の家族の距離感を昔のままでやっている佐田家だったり、北山杉の家だったりと上手くバランスといいますか現実(リアリティ)と寓話性、その幻の部分のバランスを取りながら描くところに苦労しました。

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高橋さん:原作で昭和30年代となっていますが、映画では現在となっていますよね。室町の人が映画で出てくるような、例えば着物を着て台所仕事をしているのかな、実際にあるのかなと思うのがあって、リアリティと言っていいのかなと、、、。

Saitoさん:多くはいないと思うのですが、ある種の生き方として、朝、着物を着て、気持ちを切り替えていらっしゃる方もいらっしゃいます。そうした方は少数だと思うのですが、その精神や気構えがすごいなと思ったので、千重子はそういう人でありたいなと思ったのでこのような設定にしました。
1つ原作と違っているのが千重子の母のシゲさんを死んでしまった設定にして、そちらのほうが千重子の背負う宿命が、原作では捨て子となっていますがさすがに現代に捨て子は、、、となってアレンジは加えているのですが、もともと血が繋がっていないところで室町に来て育てられて、そのお母さんが「いいんだよ。自由にして。」と言い残して亡くなっているので、そのほうが千重子が宿命を背負うだろうなといいなという考えと主演の松雪さんとも話して、そういう人物像にしたいとなって千重子に着物を着せることにしました。

Saito:一番やりたかったのは川端先生の「伝統精神を継承する映画にしてくれ」ということで、ひょっとしたらお母さんになっていて娘がいて、初めて血の繋がった娘に対して自分が背負ってきたものを受け渡すかどうかに直面して、最後は千重子さんがスッとすべての荷物をおろす、そういう物語にしたかった。もっとリアリティで押そうかと迷った時もありましが、着物だったりと日々の日常は文化の継承をしていくことにしました。あとは、違った局面として京都で出すことにこだわっているのと、最終的に海外の人に観てもらうことを意識して、1本の話の中に京都の文化を千重子に背負わすことで「なんだろう?」という取っ掛かりにしたいと思いました。

この他にもロケーションや映画の構図の話などで盛り上がり、約1時間のトークショーとなりました。
最後に会場からの質問タイムもありました。
「なぜ松雪泰子さんを主演に選ばれたのか?」という質問に対して監督は
「まず二十歳で千重子・苗子をできる女優はいるかと考えた時に、では、そのお母さんの設定はどうかとパッと頭に浮かんだのが松雪泰子さんでした。これは僕がハリウッドから日本に帰って来た時に、日本の映画界に揉まれて、根本的にアメリカと違いすぎる日本ではできないかもと心が病んでいる時に映画『フラガール』を観て、僕が観てきた、学んできたムービーだ、映画もムービーも同じだとなって、その時にスクリーンで舞っていたのは松雪さんでいつか仕事がしたいと以前から思っていて、『古都』の映画に主演を考えた時に松雪さんが浮かんできました。なかなか新人監督の作品で松雪さんのような女優さんが出てくれないのですが、1つは川端先生の作品であったことと、2つ目は想いを込めた恋文を松雪さんに渡したことで決まりました。」と聞きごたえのあるエピソードとともに答えてくれました。
また、映画に出演していた栗塚旭さんも会場に足を運んで下さり、撮影秘話を話される場面もありました。
最後は大きな拍手とともに会場からは「名作ですよ!」という声もあり、大変盛り上がったイベントとなりました。

(ヒストリカボランティアリポーター:小野 京香)